こちらが浄安寺の入り口です。 山門左手の駐車場です。 槍返しの門と呼ばれる山門です。 昨年完成した庫裏です。 こちらが玄関です。 浄安寺本堂です。こちらで法要や葬儀などを行います。 椅子席ですので、足の悪い方も安心です。 客殿です。法要のあと席でも使用できます。


宗派 浄土宗
山号 快楽山(けらくさん)
院号 微妙院(みみょういん)
寺名 淨安寺(じょうあんじ)
所在地

〒339-0057

埼玉県さいたま市岩槻区本町五丁目十一番46号

TEL

048-756-1072

FAX

048-758-6999

住職

吉水 大順

浄安寺の歴史

クリックすると拡大します。岩槻区は埼玉県東部にあり、現在「人形の町」として知られる。江戸時代は城下町として、また徳川将軍が日光社参の際通った日光御成道沿いの宿場町として栄えた。岩槻宿、あるいは岩槻九町と呼ばれ、今でも各所に残された古いたたずまいに、往時の面影をたどることが出来る。 東武野田線岩槻駅に降り立ち、駅前通りを真直ぐ進むと、程なく賑やかな通りと交差する。この通りが、かつての日光御成道である。城下町はほぼこの道沿いに発展したが、右手の町並みがかつて市宿町と呼ばれて六斎市が開かれた、城下で最も栄えたところであった。交差点を左に折れると久保宿町である。道を進むと、やがて右手に岩槻区役所が見えてくる。かつては御成道の一里塚がが設けられた場所である。道をさらに進むと渋江交差点があり、御成道はここで左折、直進すると岩槻城跡である。
この交差点から北に広がる町並みがかつての渋江町である。渋江町は現在本町五丁目と改められたが、町名の由来は平安時代末から鎌倉時代に活躍した野与党の一族渋江氏の本拠地。台地と低地が入り組んだ地形から起こったなどの説があり、江戸時代六十九軒の民家があった。この渋江町の中央にあるのが、浄土宗の古刹浄安寺である。京都市東山区知恩院の末寺で、快楽山微妙院と号し、本尊に阿弥陀如来を祀る。石畳の参道を進み、山号「快楽山」の額を掲げた山門をくぐると、境内は落ち着いた雰囲気が漂い、正面に本堂、左手に閻魔堂、抱き揚げ地蔵尊などが並び、その奥に墓地が広がっている。古刹にふさわしく数多くの寺宝や文化財が伝えられてる。
クリックすると拡大します。浄安寺はかつて真言宗の寺院であったという。『新編武蔵風土記稿』には、「当寺往昔ハ真言宗ナリシカイツノ頃ニカ廃セシヲ永正二年(1505)天誉了聞再ヒ開キテ今ノ宗ニ改メタリ 故ニ了聞ヲ以テ開山トナセリ」と記されている。 了聞上人は信濃国伊那郡高遠に生まれ、初め禅宗に入ったが、浄土宗の隆誉光冏の説法に感動してその門下となり、やがて明応元年(1492)、増上寺第五世の住持となった。当寺関東での浄土宗の布教活動は、増上寺と弘経寺が中心となっており、一方の中心の頂点を極めたことは、その勉学の熱心さが偲ばれる。上人は増上寺住持を弟子に譲った後、浄安寺を開いたほか足立郡花又村に実相寺を開いている。浄安寺の浄土宗改宗以前のことは、真言宗であったということ以外は不明である。ただ、同宗派の寺院である清浄院に伝わる『六ヶ村栄広山由緒著書聞書』には、「文亀四年(1504)八条氏と新方氏が戦い、新方氏が敗れて新方氏領は八条氏になった。栄広山(清浄院)の住持高賢上人は新方氏の血縁であったため、寺は焼かれ。角田・荒川を渡り、渋江の欣誉上人のもとに逃れた」とある。また。「武州崎西郡渋江寺は建暦元年(1211)野与党渋江、金重、柏崎、野島、白岡、箕勾の一門造営する也。武総両国浄家一統の惣本寺たり」とも記されている。年代や内容には疑問な点もあるが、この史料には戦国時代の小豪族の戦いなども記されており、浄安寺は浄土宗に改宗される以前は渋谷寺と呼ばれ、野与党の氏寺だったとする説もある。
 室町幕府が開かれると、足利尊氏は関東を重視し、子の基氏を置き、上杉氏等を補佐として関東地方の政務を執らせた。鎌倉幕府の誕生である。この後、幕府内部や鎌倉府内部で権力抗争が頻発し、鎌倉公方足利氏は、補佐の関東管領上杉氏により鎌倉を追われ、支持勢力の強い下総国古河に逃れた。上杉氏は軍事拠点の構築を図り、家宰の太田道灌等に江戸・河越・岩付に城を築かせた。長禄元年(1451)のことである。岩付に城が築かれると、城下町が徐々に形成されていった。浄安寺が開山されたのもこの頃であった。歴代城主は浄安寺を尊崇するとともに、城の外縁部に位置することから、防衛上の点からも厚く保護した。特に太田氏房は、天正十五年(1587)浄安寺とその末寺に諸役不入の特権を安堵している。天誉了聞上人の意志を継いで浄土宗の布教活動を盛んに行ったのが、大永・享禄年中(1521〜32)に浄安寺住持だった縁誉称念である。上人は、念仏修行の方法として、三〇個・三十六個を貫輪とした数珠を考案したところ、多くの信徒が倣って用いるようになったという。この頃の様子を詠った狂歌が『称念上人行状記』にみえる。
『岩付ノ町ヲ通ラバココロセヨ 人ハヌキ入レズズノハヤルニ』
また元亀のころ(1570〜3)浄安寺に滞在していた富雪斎唯称は、元亀三年「北野天神縁起絵」七幅の表層などに修補を行い、その主旨を軸木に記している。それによれば、修補の願主が山口平四郎資信であること。唯称が周防国山口の生まれで、今は岩付の浄安寺に居住していること。山口の真如寺の住持であることなどがわかる。さらに各軸には自作の和歌が記され、唯称は各地で当時流行した連歌の指導もできる人物であったと推定されている。なぜ唯称が浄安寺に居住したかは定かではないが、当時の浄安寺の高い文化水準がそこにうかがわれよう。